「ザ・メッセージ」(2) イスラーム教成立以前,コプト教,偶像崇拝禁止

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映画の冒頭に,後半で出てくるメッカとの停戦の時期に,ビザンツ皇帝ササン朝アレクサンドリアの大司教にメディナから派遣されて使者が改宗を勧める場面が出てきます。

ビザンツ皇帝はギリシア正教で,ササン朝の王はゾロアスター教,もちろんアレクサンドリアの大司教はローマ=カトリックですね。

ビザンツ帝国とササン朝は,ムハンマド以前の6世紀に最盛期を迎えました。ビザンツ帝国はユスティニアヌス1世,ササン朝はホスロー1世のそれぞれ治世でした。

しかし,最盛期は没落の始まりです。両国は激しく戦ったため国力を使い果たして衰退しました。

両国の抗争で,東西の交通路も安全が確保できなくなり,アラビア半島南西部を通る新たな交通路が使われるようになりました。

すると,アラビア半島で遊牧生活を送っていたアラブ人のなかに隊商貿易に従事する人々が現れ,貧富の差拡大したのです。

従来の遊牧生活に基づいた社会規範は通用しなり,新たな社会規範が求められるようになりました。それに答えたのがイスラーム教だったのです。

したがってイスラーム教は単なる内面の信仰だけにとどまらず,豚肉食べるな,酒飲むな,妻は4人までというような生活の細部まで規定しているのです。

この映画には,受験世界史では扱わないエピソードも出てきます。

メッカで弾圧を避けたイスラーム教徒の一部がアビシニアに逃れます。アビシニアはエチオピアで,コプト教が信仰されています。コプト教はキリスト教単性論で,単性論は5世紀半ばにカルケドン宗教会議で異端とされました。

黒人の皇帝は,イスラーム教徒の話を聞き,自分たちの宗教とイスラーム教の共通点を認め,保護を約束するのです。

さらに,砂漠の泉を押さえたことで数の上で圧倒的に有利なメッカの軍を破ったバドルの戦いや,メディナ軍の兵士が持ち場を離れたたため,後方からメッカの騎兵に攻撃されてムハンマドが負傷したウフドの戦いなどが描かれます。

628年には,メッカとの間にフダイビーヤの和議が結ばれて停戦となりました。このとき,周辺の諸国に3人の使者が改宗を求めるために派遣され,それが冒頭の場面に出てきました。

しかし,停戦は破られ,ムハンマドの軍勢は1万を超えるまでになりました。結局メッカは戦わずして降伏したのです。

イスラーム教徒がメッカを占領する場面で,ムハンマドがラクダに乗ってきてカーバ神殿に入り,内部にあった偶像を杖で倒します。

この映画はムハンマドが一切画面に登場しないにもかかわらず,一部のイスラーム教の国では公開できなかったと読んだ記憶があります。このムハンマドの持った杖が映ったのがその原因かもしれません。

イスラーム教徒たちは,その他の偶像を投げ捨て,みんなで破壊します。イスラーム教徒たちは勝利の歓喜に包まれています。

しかし,この場面を見ると,アフガニスタンのターリバーン政権がバーミヤンの大仏を破壊した事件や,イスラーム国がシリアのパルミラなど多くの遺跡を破壊していることを思い出します。

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