「アルゴ」(2) イラン革命・イランアメリカ大使館人質事件までのイラン史

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今回は,ほぼ受験知識です。

642年にイスラーム勢力がササン朝ニハーヴァンドの戦いで破り,ササン朝は滅んで,イランはイスラーム教徒が支配する世界となりました。

その後,アッバース朝時代になると,イスラーム教徒の平等が進み,行政能力を身につけたイラン人が台頭しました。

10世紀にはシーア派ブワイフ朝が,11世紀にはブワイフ朝を滅ぼしてトルコ系セルジューク朝がアッバース朝を支配しましたが,やがて13世紀にはモンゴル人フラグがアッバース朝を滅ぼしました。

フラグはイル・ハン国を建て,この国もイスラーム教を受け入れました。

イル=ハン国が滅んだあと,16世紀にはイランに久しぶりのイラン人の王朝サファヴィー朝が成立しました。このサファヴィー朝の時代にシーア派がイランに定着します。

サファヴィー朝はアフガン人に滅ぼされ,18世紀終わりにトルコ系のカージャール朝が成立しました。19世紀を通じてカージャール朝は,ロシアとイギリスの侵略に苦しみます。

20世紀に入って,第一次世界大戦が起こるとカージャール朝は中立を宣言しましたが,ロシアとイギリスが侵攻しました。

大戦中にロシア革命が起こってロシア軍が撤退すると,イギリスが保護国化しようとしました。その時,軍人のレザー・ハーンがクーデタを起こし,カージャール朝を倒して皇帝に即位し,パフレヴィー朝を開きました。

しかし,レザー・ハーンは独裁化し,イスラーム教を軽視するようにもなり,民衆の反発を招きました。第二次世界大戦ではナチス・ドイツに接近したため,イギリスとソ連の侵攻を受け,レザー・ハーンは子のパフレヴィー2世に位を譲って亡命しました。

第二次世界大戦後,イランの石油はイギリスのアングロ・イラニアン石油会社が支配していました。

1951年に首相となった民族主義者のモサデグは石油国有化法を議会で可決して石油国有化を進め,イギリスとアメリカに対抗するため,ソ連に接近したのです。

しかし,国際石油資本によってイランの石油は国際市場から閉め出され,アメリカとイギリスはCIAを使って秘密工作を行い1953年に皇帝派のクーデタでモサデグは失脚しました。

権力を回復したパフレヴィー2世は,共産主義の「赤色革命」になぞられて「白色革命」という上からの近代化改革を進めました。

土地の改革や国営企業の民営化,教育の振興などを進めましたが,女性参政権や非イスラーム教徒への選挙権の拡大を行うと,ホメイニらイスラーム法学者が反発しました。

その後,ホメイニは国外追放となり,パリに亡命しました。

しかし,1970年代に第4次中東戦争の結果,石油危機が起こり,その後急速に原油価格が安定すると,イラン国民の経済格差は拡大し,政治に対する不満は高まり,デモやストライキが頻発するようになりました。

1979年1月にパフレヴィー2世は休暇と称して皇帝専用機ボーイング727を自ら操縦して,エジプトに飛び立つたのです。

ホメイニは2月に帰国し,革命評議会を組織し,イランはイスラーム主義を基礎とする共和政となりました。これがイラン革命です。

そして,元皇帝が癌の治療のためとしてアメリカに移ると,反発した学生たちがテヘランのアメリカ大使館を占拠したのです。

アメリカのカーター大統領は,人質救出作戦を試みたものの,ヘリコプターの故障や,輸送機とヘリコプターの衝突事故などが起こって失敗しました。

しかし,元皇帝が1980年にエジプトで死去するとアメリカ大使館占拠の意味がなくなり,カーターがレーガンに大統領選挙で敗れ,レーガン大統領が就任した1981年1月20日に,444日ぶりに人質は解放されたのです。

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