「クロムウェル」(2) ピューリタン革命・王政復古・名誉革命

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映画は,1640年に王チャールズ1世がスコットランドとの戦争のために議会を11年ぶりに開くことになり,クロムウェルの領地のあるケンブリッジにロンドンから迎えが来る場面で始まります。

やがて,ピューリタン革命が始まると,クロムウェルは議会軍に参加し,最初の戦いであるエッジヒルで,経験と装備に勝る国王軍に敗れました。寄せ集めの軍では勝てないと考えたクロムウェルは,私財を投じてジェントリヨーマンを集めて鉄騎隊を編成して訓練します。

ジェントリとは,中世以来の騎士や豊かな農民の地主層で,ヨーマンとは独立自営農民すなわち農奴から解放された農民層です。

クロムウェルは議会軍を率いてネーズビーの戦いに参加し,勝利を収めました。王との妥協を模索したクロムウェルは,要求を無視したチャールズ1世を結局処刑します。さらに議会をも解散し,議場の議長席に1人座るところで映画は終わります。

受験的には,議会は王党派議会派に別れて内戦となり,議会派が勝利した後,議会派内部で対立が起こり,多数派の長老派を少数派であったクロムウェルの独立派が追放し,さらにより過激な水平派を弾圧して独裁を行うと説明されます。

1653年にクロムウェルは護国卿に就任し,独裁を行いました。しかし,クロムウェルがインフルエンザで亡くなると,彼の子リチャード=クロムウェルが護国卿になりましたが,父ほどのカリスマ性はなく,すぐに辞任してしまいました。

議会には長老派が復帰し,王党派と妥協して王政復古となり,亡命先のフランスから戻ったチャールズ2世が即位します。やがて議会は王党派が多数を占めるに至ります。

王政復古後,クロムウェルは墓を暴かれて遺体は絞首刑にされた上に首をはねられ,さらし者にされたそうです。しかし,19世紀に再評価がすすみ,現在はイギリスの議会となっているウェストミンスター宮殿の前に,クロムウェルの銅像がたっています。それでも評価は2分しているようです。

さて,王政復古で議会と王は宗教的にも対立はなくなったはずだったのですが,王はフランス亡命中にカトリックの影響を受けていました。フランスはフランス絶対主義を象徴する,カトリック教徒の太陽王ルイ14世の治世でした。

チャールズ2世の死後,弟ジェームズがジェームズ2世として即位しました。彼はカトリックの洗礼を受けていました。ただ,彼には男子の跡継ぎがいなかったので,とにかく議会は事を荒立てたくなかったのです。

しかし,50歳を超えていた王に跡継ぎができました。このままではカトリックの王が続きます。そこで,ジェームズは追放され,ジェームズの娘でプロテスタントのメアリが嫁ぎ先のオランダから呼び返されました。

すると彼女は夫のオランダ総督ウィリアムとともに帰国し,1688年にメアリ2世ウィリアム3世として即位したのです。

これを血を流さなかったことから,名誉革命と言います。

議会は2人の王の即位に際して,議会が王に優越するという権利の宣言を認めさせ,権利の章典として法律化しました。ここにイギリスの議会主権が確立します。

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