「サラエヴォの銃声」(2) サライェヴォ事件

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オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナントは,当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの子ではなく,皇帝の弟カール・ルードヴィッヒの子でした。皇帝と美貌で有名な皇妃エリザベートの間の子ルドルフは,心中事件を起こしてすでに亡くなっていました。

フェルディナントはオーストリア帝国軍の総司令官として,ボスニア・ヘルツェゴヴィナで行われる軍事演習の視察に,妻のゾフィーとともにやって来ることになりました。

そこで,セルビアの秘密結社黒手団は,数人のメンバーをサライェヴォに送り込んだのです。

陸軍の演習を視察したあと,フェルディナントとゾフィーは随行員とともに,サライェヴォの市役所で開かれる歓迎式典に6台の車でパレードしました。ある橋にさしかかったとき,突然沿道の群衆のなかから黒手団のメンバーの青年チャブリノヴィッチが爆弾を投げつけました。

爆弾はフェルディナント夫妻の車ではなく,後続の車に当たって爆発しました。随行員は重傷を負いましたが,夫妻には別状なかったので,そのまま車列は市庁舎に向かい,式典を済ませました。

そのあとの予定はキャンセルされ,負傷した随行員の見舞いに行くことになりました。

ところが夫妻の車の運転手が予定の変更を聞かされていなかったため,途中で引き返すことになり,スピードを緩めたのです。

そのチャンスに黒手団のもう一人のメンバーのガヴリロ・プリンチップが拳銃で数発発射しました。ゾフィーはほぼ即死状態となり,フェルディナントも胸を打たれ,二人とも収容された病院で亡くなりました。

 
ウィーンの軍事史博物館に収められている,事件のときにフェルディナントが着ていた軍服。応急手当のために裂かれている。

 
当時,多民族国家であるオーストリアは,支配下の諸民族のナショナリズムに苦しんでいました。

ドイツ統一をめぐるプロイセン=オーストリア戦争に敗れたあとは,支配下のマジャール人にだけ自治権を与えてハンガリー王国をつくらせ,その王位をオーストリア皇帝がかねるオーストリア=ハンガリー帝国を成立させて,マジャール人とともに他の民族を支配しようとしたのです。

でも,スラブ系の人々の民族運動は高まるばかりでした。

フェルディナントは,スラヴ人にも自治権を与えるオーストリア=ハンガリー=スラヴ三重帝国をつくるべきだと考えていました。しかし,皇帝フランツ・ヨーゼフはこれに反対し,2人は対立していました。

そこで,フェルディナントは危険なボスニア・ヘルツェゴヴィナにあえて行くことにしたのです。

また,妻のゾフィーはベーメンの貴族の娘で,身分が低いとして結婚には周りが反対しました。結局,結婚は承認されたものの,ゾフィーには将来の皇后の地位は認められず,2人の間の子供にも帝位継承権は認められませんでした。

フェルディナントは,このボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問に,ゾフィーを同行することを強く主張しました。つまり,この訪問がゾフィーの公式行事のデビューだったのです。

この日6月28日は,2人の結婚記念日だったとも言われています。

一方,暗殺団のメンバーの多くは捕らえられました。チャブリノヴィッチとプリンチップは未成年だったため,死刑にはなりませんでしたが,2人とも数年後に獄中で病死しています。

暗殺団のメンバーの一人,チャブリノヴィッチとよく似た名前のチュブリロヴィッチは,その後ベオグラード大学教授,さらに閣僚になっています。

受験勉強では,ただ「第一次世界大戦のきっかけとなった事件」でおしまいでしょう。でも,そこにはこれだけのドラマがあります。

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