「サラエヴォの銃声」(1) サライェヴォ事件までの歴史

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2014年6月28日,第一次世界大戦開戦のきっかけとなったサライェヴォ(サラエヴォ)事件から100年目の記念行事がボスニアのサライェヴォで行われました。

この映画は,その日のサライェヴォのホテルが舞台です。
http://www.bitters.co.jp/tanovic/sarajevo.html

屋上では,この事件でオーストリアの帝位継承者夫妻を暗殺したプリンチップをめぐって,女性のジャーナリストが何人かの人にインタビューをする番組を撮っています。

ホテル内部では,給料の遅配でストを計画している従業員と裏の人間を使ってストを阻止しようとする支配人,さらにストの中心に母親が担ぎ出されたことを心配する受付主任の女性,そして部屋でスピーチの練習をする人物とそれを警護する警察官などが,ドラマを展開します。

インタビュー中にジャーナリストがプリンチップをテロリストと呼んだことについて,ジャーナリストとプリンチップと同姓同名の人物の間で激しい議論となるのですが,その一方でお互いに好意を持つようになります。

ところが番組を離れて個人的に議論していたものが,密か録音されていたのを知って,男は怒り,拳銃を取り出して階段を降りていきます。

彼は拳銃を持っているのを警察官に見つかり,射殺されるのです。

まずは,サライェヴォ事件の背景から整理して置きましょう。

20世紀初めに青年トルコ革命が起こり,オスマン帝国が混乱すると,それを利用してブルガリアが独立し,オーストリアがオスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナに隣接するセルビアは併合を狙っていましたから,オーストリアに反発しました。

このような情勢のもと,ロシアはオーストリアに対抗させるため,バルカン半島のセルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ルーマニアバルカン同盟を作らせたのです。

ところが,バルカン同盟諸国はロシアの意図とは違って,混乱しているオスマン帝国に目を向けました。そしてバルカン同盟とオスマン帝国の第1次バルカン戦争を起こしました。

バルカン同盟諸国は勝利して,バルカン半島のオスマン帝国領を奪いました。しかし,ブルガリアが多くの領土をとったので,他のバルカン同盟諸国と対立し,第2次バルカン戦争が起こったのです。

この戦争は,セルビア・モンテネグロ・ギリシアにトルコやルーマニアも参戦してブルガリアの敗北で終わりました。するとブルガリアはスラブ系の国家でありながら,ドイツ・オーストリアに接近したのです。

こうしてバルカン半島は,オーストリア・ロシアの帝国主義国の対立,スラブ対ゲルマンの民族対立,さらにそれだけでは割り切れない,ブルガリアのようにスラブ系でありながらゲルマン側に接近する小国のナショナリズムが錯綜して,「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれました。

そして,ボスニアで,「火薬庫」に火をつけたのがサライェヴォ事件でした。

1914年6月28日,オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーがセルビア青年ガヴリロ・プリンチップによって暗殺されたのです。

当時ヨーロッパの国際関係では,ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟イギリス・フランス・ロシアの三国協商勢力均衡が成立していました。

勢力均衡は力のバランスが保たれている限り,戦争は起こりません。しかし,どこかで争いが起こるとすべてを巻きこむ危険性をはらんでいます。

バルカン半島で,サライェヴォ事件から1か月後,オーストリアとセルビアの間で戦争が起こると,この同盟関係によって世界戦争となったのです。

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